『街道をゆく 台湾紀行』|司馬遼太郎の感想 台湾の歴史と国家とは何かを学ぼう
ブログを始めると、いろいろなことに興味が湧いてきますね。
本日は台湾人を妻に持つ僕が、以前から読んでみたかった司馬遼太郎さんの『街道をゆく 台湾紀行』を紹介したいと思います。台湾が民主化されて間もない頃の1993年に司馬さんが台湾を訪れたときに執筆した紀行です。
先日お亡くなりになられた元台湾総統の李登輝さんとの対談も掲載されていて読み応えありです。
では、早速紹介していきます。
街道をゆくとは
有名小説家の司馬遼太郎さんが訪れた地で思ったことを綴った紀行文です。朝日新聞に1971年から掲載され始め、司馬さんが亡くなる1996年まで続きました。全43巻のシリーズもので、主な旅行先は日本ですが、ニューヨークやロンドン、アイルランドなどの海外紀行もあります。
司馬遼太郎さんとは
1923年大阪生まれの小説家です。大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語学科)を卒業し、戦後に新聞社でキャリアをスタートしました。新聞記者として生計を立てながらも小説を書き、1960年に『梟の城』で第42回直木賞を受賞してからは、作家としての人生を歩み始めます。『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗りものがたり』などの歴史小説が代表的作品です。1996年に腹部大動脈瘤破裂のためお亡くなりになられました。
台湾紀行はどんな人におすすめか
台湾に興味を持った人は必読の書です。台湾という国家の成り立ちから、民主化に至る経緯まで、司馬さんの実体験を元に綴られています。一度台湾に旅行をしたことがある人であれば、台湾は親日国で夜でも女性が一人で出歩くことができるほど治安のよい国という印象を持つと思いますが、台湾がいかに壮絶な歴史を乗り越えてきたか知ることができると思います。
台湾紀行の旅のあらすじ
舞台は1993年の台湾です。台湾で戦後国民党軍が支配しはじめたときに発布された戒厳令が解除されたのが1987年で、国民による総統直接選挙が開始されたのが1996年ですので、現在とは大きく異なる時代です。台湾は約25年で大きく世の中が変わりました。
1993年1月の旅で主に訪れた場所
中正国際空港
現在の台湾桃園国際空港です。2006年に名称が変更されるまでは、国民党党首で中華民国総統の蒋介石の本名に由来する名称でした。司馬さんが台湾へ行くために使用した航空会社は「日本アジア航空」。中国との関係により、日本のフラッグシップである日本航空は台湾へ飛ぶことが許されていなかったため、別会社として設立された日本アジア航空が台湾へ就航していました。
台北
司馬さんは、当時台湾で唯一日本メディアとして支局を持つ産経新聞の吉田局長に伴われて、台北の街を歩きます。台北の街は秩序だってはいないが、街はネオンが煌めいており、盛り上がり方は大阪以上と感じたようです。1996年に台北地下鉄(MRT)が営業を開始する前の1993年ですので、街には車がごった返していたようで、また、信号はあまり守られていなかったようです。(今はそんなことはないんですけどね。台湾が今の東南アジアのように、活気のある時代であることを感じさせます)
日月潭
台湾島の中心地に位置する古くから名勝として知られている湖で、もともとは原住民の居住区でした。清朝時代は「水裏社潭」とも呼ばれており、現在は漢民族の集落が多くあります。私も観光に行ったことがありますが、時折エメラレドグリーン輝く水面は大変美しく、感動したことを覚えています。
嘉義
台湾南部の都市で、初めて2・28事件の記念碑が建てられた地です。司馬さんはこの地のホテルで、中華民国という国名の1個の幻想と1個の現実について考えます。中華民国は大陸を含めて中華民国であり、あくまで台湾の島という場所は、中華民国の中の台湾省という一つの省に過ぎないのです。大陸は中国共産党が実効支配していますのでそれは幻想なのですが、今だに古い車のナンバープレートには「台湾省」の文字が刻まれています。また、嘉義については、戦前の嘉義農林学校は甲子園に出場した強豪校であったことも紀行で触れられています。
烏山頭ダム
日本人土木技師八田與一が設計した当時世界一の大きさを誇った台南市にあるダムです。1910年に建設が日本の閣議で決定され、当時の台湾総督府の予算の約半分が費やされました。1920年に着工し、完成は1930年とかなりのハイペースで建設されたことから、当時の日本がいかに台湾に最新の技術を投入しようとしていたのかが伺えます。
台南
日本時代に台北へ台湾の中心地が移る前、台湾に拠点を構えたオランダや清の時代には、政治・経済・文化の中心となる都市でした。台湾市内には、17世紀に建てられた2階建ての大建築である「赤嵌楼」やかつてオランダ人が築いた「安平古堡(ゼーランジャ城)」などがあります。司馬さんは「担仔麺」という小さなお椀に挽肉の煮込みと少々のスープが入った麺料理を提供する有名店「度小月」でオランダ時代の台湾について考えます。
1993年4月の旅で主に訪れた場所
高雄
台湾第2の都市です。もともとはその地に「タアカオ」という原住民のコミュニティがあることから、清朝時代に「大狗(ダァゴウ)」という当て字が使われるようになり、日本時代の1920年に類似発音の「高雄」に改称されました。現在も台湾においては「高雄(ガオーシォン)」と呼ばれています。
新営
台南の北部にあり、17世紀に鄭成功の屯田兵によって開かれた街です。作中では、司馬さんは、沈乃霖先生という東京帝国大学卒業し、新営で医院を営んでいる台湾人のお医者さんに出会います。新営は現在、田舎町ではありますが、沈さんによれば、第2次世界大戦時、日本国の領土の中で一番最初に爆撃を受けた街だそうで、戦前はそこそこ栄えていたようです。
台東
台湾の南東にある都市で、司馬さん一行は、高雄からプユマ号という特急列車に乗ってこの地に訪れます。現在も多くの原住民が住んでいる地で、作中司馬さんは、プユマ族の御年83歳の首長に出会います。戦後、台湾の国民は日本名から中国風の名前に変わりましたが、この方は、現在も大野さんと呼ばれて親しまれているそうです。
花蓮
台湾東部にある日本統治時代に開かれた地です。司馬さんは、多くの台湾人から、花蓮の町並みは戦前の日本のようだと聞いたそうで、実際に歩いてみると、寅さんの映画に出てくる帝釈天の門前町と言われても不自然ではないという感想を持ったようです。私は今年花蓮へ行きましたが、そのような町並みを見ることはできませんでした。約25年で台湾も大きく変わったのでしょうか。
主な登場人物
歴史上の人物
孫文
1866年中国広東省に生まれ、辛亥革命で中華民国を成立させた台湾では国父と呼ばれる人物です。兄がハワイで成功したため、自身も高校時代はハワイで過ごし、その後香港の医学校で西洋医学を学びました。話が大きく、また、その明るさから「孫大砲」というあだ名がつけられていたそうです。
蒋介石
1887年中国浙江省に生まれ、孫文の後継者として国民党を指揮した人物です。本名は蒋中正。1907年に保定軍艦学校に入り、のちに日本陸軍に留学しています。波乱の多い人生で、大陸で国民党のリーダーを努めていたときは、外からは日本の侵略があり、国内では共産党との戦います。途中、国共合作を行って、日中戦争を指揮したり、日本の敗戦後は再び共産党と戦って、最後は毛沢東の共産党に敗れて台湾へ移り、大陸反抗を果たすことなく、1975年に台湾で最後の時を迎えます。
蒋経国
蒋介石の息子で、父親の死をきっかけに1978年に総統の地位を継承しました。10代の頃にソ連に留学し、12年間ソ連に在住した経験があります。台湾で民主化機運が高まるなか「私も台湾人である」と宣言し、本省人たちと融和を図りました。憲法上、次期総統となる副総統には、台湾出身の李登輝を選定しました。
陳儀(ちんぎ)
日本敗戦後、台湾島制圧のために蒋介石が真っ先に台湾に送り込んだ国民党の軍人で、中華民国の初代台湾行政長官です。福建省時代から汚職の絶えない政治家で、在任2年間の間に台湾を私物化し、絞れるだけのものを懐に入れたと作中では描かれています。
郝柏村(かくはくそん)
李登輝政権の行政長官を務めた人物です。大陸出身の外省人ということから、李登輝首相と不仲で、李登輝さんが首相に就任して2年経って初めて、首相就任の祝辞を贈ったことは当時話題になったようです。これは部下が上司に対して評価をするようなできごとです。この構図から、いかに外省人と本省人の間に深い溝があったかが伺えます。のちに、李登輝総統との対立が理由で、郝柏村氏は首相を辞任します。巻末のインタビューで李登輝さんは、本省人も外省人も同じ漢民族で、台湾に早く来たか遅く来たかの違いだが、台湾人の国民党にするためには、行政長官を交代させなければならなかったと話しています。
鄭成功(鄭成功)
明時代の1624年に生まれた台湾をオランダの支配から開放した中華圏の英雄です。父は対日貿易商であった鄭芝龍、母は日本人の田川マツです。その功績を認められ、21歳のときに明の国姓である朱姓を与えられ、後に国性爺と呼ばれます。近松門左衛門の人形浄瑠璃有名な『国性爺合戦』のモデルとなった人物です。
八田與一
1886年に金沢で生まれた土木技師で、烏山頭ダムを建設した人物です。戦後、中華民国が日本色を払拭しようと各地に蒋介石の銅像を乱立させていた時代に、銅像が作られた唯一の日本人で、現在も多くの人から讃えられている偉大な日本人です。どういうわけか「台湾名人伝」という中華民族傑出人物集の本の中では、中華民族の一員として紹介されています。
モーナ・ルダオ
台湾原住民のセデック族出身で、1930年に発生した霧社事件の頭目です。300人の壮丁を率いて日本軍と戦いますが、敗戦し最後は自決します。13歳から原住民の風習である首刈りに参加し、ことさら、自身の勇を誇示する性格で、戦いのときは必ず先頭に立ち、自分より先に行く者がいれば、問答無用で撃ち殺すような性格だったらしいです。2011年に『セデック・バレ』という霧社事件を描いた映画が話題になりましたが、その主人公です。
司馬さんが紀行でお会いした人物
李登輝さん
1988年から2000年まで台湾の総統を務めた人です。日本時代の1923年、台北県の淡水に生まれました。農村の家庭ながらも読書家の父親から熱心な教育を受け、当時エリートが通う国立の旧制臺北高等学校を卒業し、京都大学農学部を卒業しています。詳細は後に触れますが、台湾で初めて内省人で総統となった人です。「ミスターデモクラシー」と呼ばれ、台湾の民主化に大きく貢献した偉大な方です。
老台北(ラオ・タイペイ)
1927年に台湾の台中に生まれた実業家です。老台北は紀行の中での仮の名で、本名は蔡焜燦さんです。台湾のシリコンバレーと呼ばれる新竹で、偉詮電子(ウェルトレンド・セミコンダクター)という半導体の会社を経営しています。終戦時は18歳で奈良の航空整備学校に在籍しておりましたが、台湾へ帰国後は体育教師になります。理由は國語を話す必要があまりなかったからとのこと。老台北が日本に帰ると国語が日本語から中国語に変わっていたことに、台湾事情の複雑さを感じます。
陳舜臣さん
戦前1924年に神戸に生まれた台湾人で、歴史小説家として有名です。司馬さんを台湾紀行に誘った人物で、台北の旅では司馬さんに同行します。司馬さんとは大阪外国語大学の先輩後輩関係です。常に口頭言語が短い方らしいです。
吉田信行さん
司馬さんの旅に同行する産経新聞の台北支局長で、台湾の私立大学の輔仁大学で日本語の先生も務めた方です。当時、多くのメディアは中国北京に支局は置くために、台北からは撤退を余儀なくされており、産経新聞は台湾に支局を持つ唯一の日本のメディアでした。後に、台湾の支局を北京支局の子組織にすることで、台湾に支局を置くことを許可され、現在は多くのメディアが台湾支局を置いています。
台湾紀行で面白いと思った小ネタ
戦前の日本はアメリカ合衆国並みの多民族国家だったこと
戦前の日本には多くの民族が住んでいたことが紹介されています。樺太のギリヤーク、北海道や千島のアイヌ人、第一次世界大戦後にドイツ領から委任統治された南洋庁のカナカ人やチャモロ人、そして、日本人、朝鮮人、台湾の原住民、漢民族と多様な人種を日本は統治していました。
台湾にも俳句の会があること
日本統治時代の名残から、台湾には俳句を作る人がいて、俳句結社もあるそうです。作中には、頼天河さんの「一家三代二国語光復節」という台湾らしい面白い句が紹介されていました。祖父母は日本語、子の世代は下手な北京語、孫の世代は流暢な北京語話すという台湾の言語事情を表したものです。ちなみに光復節とは、栄光の回復という意味で、日本が敗戦を認め引き揚げた後に、主権が中華民国政府に移った時のことを言います。
臺北帝国大学は内地の帝大よりも早くに設立された
現在台湾の最高学府である国立大学の前身は日本時代の1923年に設立された臺北帝国大学です。この大学は、大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早い時期に設立されました。李登輝さんは作中で「植民地というのは、トクな面もある。その本国の一番いいところが植民地で展開されるからだ」と述べています。上下水道の整備も日本内地よりも台湾の方が早く整備されました。いかに日本が台湾の社会インフラ整備を重視していたかが分かります。
台湾の外貨準備高は世界で上位
台湾は1993年当時、日本を抜いて世界トップクラスの外貨準備高がありました。戦後、台湾人が、政治に関して外来政権から主導権を得ることができなくても、実業については頑張ってきたかが分かります。2020年現在においても世界5位の外貨準備高を維持しています。(ちなみに1位は中国、2位は日本です)
日本は1885年に台湾を支配するときに2年間の猶予付きで国籍の選択権を与えた
日本政府は1885年に清より台湾を割譲されるとき、台湾島民に対して2年間の国籍選択権を与えました。日本国民になるのが嫌だというのなら不動産を売却して退去してもよいということです。というわけで、日本は台湾に対して「一応」あいさつはしているのですが、このとき残った台湾人たちは何を思ったのでしょうか。大半の人が本当は清に行きたかったが、現実を受け入れざる負えなかったのかもしれません。一方、中華民国は、台湾島に来たとき「今日よりすべての土地・住民は中華民国国民政府の主権に置かれる」とラジオで宣言し、有無を言わせなかったそうです。どちらも権力を行使して支配をしたことには代わりありませんので、日本を肯定するわけではありませんが、日本と中華民族との思想の違いを感じます。
原住民の年配者間の共通語は日本語
原住民は部族によって言葉が異なります。そのため、若い人はともかく、中国語の教育を受けていない年配者は他の部族とコミュニケーションをとるとき、日本語を使うそうです。作中で司馬さんは、この地球上で唯一日本語が「国際公用語」として使用される例だと表現しています。
台湾人が少数民族として扱われていたこと
ロンドンに本部のあるMRG(The minority group)という団体が発行している雑誌に、台湾人が少数民族の項に入っているそうです。日本統治時代は二等国民の扱いを受け、大陸からきた中華民国政府からは、憲法停止の戒厳令発布という非立憲的な統治をされ、本省人は法によらず逮捕されたり、処刑されてきたことが背景にあるようです。今はそんなことはないと思いますが、アジアではチベット族、ヨーロッパではトナカイ遊牧のラップ人に並んで、人口約2000万人もいる台湾人が少数民族だなんてちょっと笑ってしまいますね。ちなみに人口2000万人というのは、ポルトガルやオランダの人口よりも多いです。
日本最高の山は台湾の新高山だった
台湾の中心には南北に山脈が走っていますが、日本統治時代、台湾は日本で最も高い山が位置する地でした。台湾のこの山は、富士山の3776メートルのより高い3952メートルで、富士山より高いことから新高山と呼ばれていました。現在は玉山と呼ばれています。
戦後台湾人は漢字のわきにカタカナを付けて北京語を学んだ
司馬さんが花蓮の街で出会ったタクシーの運転手は、小学5年生まで日本語を学び、6年生からは北京語を習ったそうです。そのとき「漢字のわきにカタカナをつけて」という発言があります。これはちょっと驚きです。だから、台湾人の中国語は日本人にも馴染みやすいのでしょうか。(中国南部の人の中国語と台湾人の中国語が似ていることを考えるという、そういうわけではないでしょうけど)
台湾紀行の感想
この物語は「国家とは何か」という一言から始まります。江戸時代に高砂国と呼ばれたこの島は、もともと複数部族に分かれる原住民が暮らしている島でした。
16世紀にスペインやオランダがやってきて拠点を構築し、その後16世紀の後半には鄭成功がオランダを追い払ってからは、漢民族が統治をする時代が始まります。福建省から多くの漢民族が移住してきますが、清朝時代に入ってからは、化外の地として国家権力が長らく及ばない地でした。日清戦争の結果、李鴻章は台湾を日本に割譲しますが、清朝政府は化外の地を日本がもらったとしても困るだろう、といった程度の場所だったようです。
それから、約50年の日本統治を経たのち、外来政権の国民党一党独裁時代を乗り越え、現在では台湾人が直接総統を選ぶ高度な民主主義が成立する国にまでなりました。本来流民の国だった地が、ここまでの社会を作った例はアメリカ合衆国以外にはないのではないかと司馬さんは作中で述べています。
もともと中国の王朝において、国家権力は私物であったと司馬さんは言っています。現在の中国共産党も、国家はを私物としているように見えますし、蒋介石が台湾に持ち込んだ中華民国も当初は蒋家の私物でした。
一方、中国の国民にとっても国家に対して信頼が低く、一つの民族として固まっていません。辛亥革命で中華民国を樹立した孫文も中国人をバラバラの砂のようだと表現しており、その理由は、他国のように国家を意識した民族主義が少ないからだと述べています。中国人にあるのは、家族主義と血縁や同一の姓を重視する宗族主義だけで、中国には国家主義がないということです。
このことは、現在の中国共産党が支配する中国を見ていても感じられます。習近平国家主席は、中華民族の偉大な復興を成し遂げると声高々に宣言をしていますが、その思いは国民には十分に届いていません。海外に移住をする中国国民も多いですし、実は裏で政府の批判をする若者も多いと聞きます。また、あれだけ反日教育をしていても、旅行先のランキングは日本が毎年1位です。どうも、共産党政府と国民の思いは一つになっていないことを感じます。
特に中国の権力者が国家を私物としている感じられる点は独裁にこだわるところです。最近も香港では国家安全法が市民の意志を無視して施行され、民主化運動のリーダーたちは、海外勢力と結託をして国家に危険をもたらしたことを理由に逮捕までされています。豊かになった現代において、国民ひとりひとりの権利が尊重され、言論が自由であり、誰に統治をされるのか選ぶことが認められるべき時代です。
中国共産党は台湾独立を全力で阻止しようとしていますが、国民に主権がある民主主義を経験した台湾人は腐敗した中国共産党の私物の一部にはなりたくないと思うのは当然です。人類は本能的に誰からも束縛をされたくありません。自分の好きではないリーダーが選挙で当選したとしても、民主主義では多数の者に選ばれた人がリーダーになるという前提の元、納得感を得ることができます。1党独裁の中国にはそれがありません。
これまで述べてきたように、台湾では高度な民主主義が成立しています。その立役者の李登輝さんは、本省人として初めて総統になり、後に総統直接選挙を実現したミスターデモクラシーとも呼ばれる人です。(司馬さんは、当時総統であった李登輝さんと台北で会食をしています)
戦後、日本軍が敗戦により台湾を撤退した後、中国大陸で共産党との内戦で劣勢状態にあった国民党が台湾を支配します。当初、台湾人は祖国復帰を果たすことに歓喜の声をあげ、中華民国建国の父・孫文の「三民主義」を掲げたり、進んで国語(北京語をベースにした中国語)を学んだりしました。
しかし、「犬去って、豚が来た。犬はうるさいが、家の番はできる。豚はただ食って寝るだけだ」という悪口が流行するほど、台湾に住む人々は国民党に失望しました。やってきた国民党軍は略奪に奔走し、汚職の限りを尽くしたためです。
このような状況下の1947年に、民衆の抗議デモをきっかけにした2・28事件が発生し、多くの死者が発生し、1987年まで戒厳令が発布されることになります。この長い期間、台湾を支配したのは、大陸から来た国民党の軍人たちです。台湾では、戦後大陸から来た人を外省人、もともと台湾に住んでいる人を内省人と言います。台湾を支配することになった外省人の国民党政府は、蒋介石をトップとし、政府の要人に内省人が就くことは許されず、大陸系の外省人の国会議員は42年間も改選されることはありませんでした。
1975年、蒋介石の死をきっかけに、長男の蒋経国が総統になった頃から台湾国内の内省人に対する風潮が変わってきます。当時の台湾政府は内外とも厳しい状況に立たされていました。1972年に共産党が支配する中国がアメリカを始めとした世界の主要国と国交を結んだ末に、台湾とは断交。台湾は孤立してしまいます。また、国内の内省人たちは、台湾を私物化する政治活動に不満を募らせながらも、経済活動に専念し、台湾の経済力は大きく飛躍していきます。この状況を鑑みた蒋経国は「蒋家の者が権力を継承することはない」という宣言を行い、1987年には「台湾がやがて本島人たちのものになる」と発言するのです。この年に、戒厳令を解除し、「私も台湾人だ」という公言までも行います。
そして、その後、1988年の蒋経国の死により総統を引き継いだのが李登輝さんです。李登輝さんは日本時代の1923年の台湾に生まれました。当時台湾のエリートが通う旧制臺北高校を卒業し、京都帝国大学で農業経済学を学びます。その後、学徒出陣も経験。終戦後はアメリカへ留学を経験し、1971年に農業の専門家として国民党へ入党しました。
李登輝さんは1988年、蒋介石の息子であり当時総統の蒋経国が死亡したため、憲法の規定に則り、本省人として初めて総統になります。これは当時としてはすごいことです。司馬さんは「19世紀のインドで英国人のゴルフクラブの理事長のイスにインド人のキャディが座るようなもの」と表現しています。
李登輝総統は、台湾を治めるためにやってきた外来政権の国民党を台湾人の国民党にするために奔走します。台湾人を満足させるためには、憲法を修正して、民主改革を行い、総統の選挙の民選でやることが必要と話し、これを実現します。李登輝政権以来、台湾では国民が総統を選ぶようになり、政権交代も複数回経験しています。台湾は現在、言論の自由が認められており、政治活動に制限もありません。若者の政治に対する関心も高く、世界においても高度な民主主義を実現している国なのです。
これは余談ですが、司馬さんは台北に滞在したとある夜、作家の陳舜臣夫婦と一緒に李登輝さんと総統官邸で会食をします。初めての面会でしたが、司馬さんは身長180cmを超える李登輝さんの印象を「容貌は下顎が大きく発達し、山から切り出したばかりの大木に粗っぽく目鼻を彫ったようで、笑顔になると、木の香りがにおい立つようである」と表現しています。さすが日本が誇る名小説家。表現が巧みすぎます。
ちょっと脱線しましたが、そんなわけで、李登輝さんが台湾国民にもたらした功績は非常に大きいです。今後台湾の未来はどうなっていくのでしょうか。親中だった馬英九政権から、台湾独立色の強い民進党の蔡英文政権になってから、台湾と国交断絶をする国は増え続け、台湾と国交を持つ国は現在15カ国しかありません。中国が力を増大させ続ける中で、台湾の状況はより厳しいものになっています。
私の台湾人の妻は、いつかは統一されてしまうんじゃない?と悲観的にいますが、最近の動きを見て本当にそうなのかな私は思います。中国は世界の工場としてここ数十年で飛躍的な経済発展を遂げましたが、西側諸国との関係は悪化し始め、反中国運動が世界で起き始めています。英国ではファーウェイ製の5G機器の導入は見送られましたし、インドではTikTokの利用が制限され、米国では売却命令まで出ています。
もともと中国自体、米国のIT企業のサービスを禁止してきましたが、今度は逆に中国のサービスや製品を拒否する国が登場し始めました。共産党が現在の一党独裁を維持し、国家を私物化している限りはこのような流れは止まらないのではないかと思います。
これまで革命は武力を伴って起きてきました。現代社会において、武力で革命が起こることは非常に考えにくいですので、今後も中国で革命が起こって民主化される可能性は少ないでしょう。しかし、世界において中国が孤立し、経済的な発展も怪しくなったときが時代の転換となるかもしれません。その時、民主化を推進する英雄が現れ、中国という国に新しい時代が訪れれば、台湾人が納得した上で中国と台湾が統一されると私は思います。
しかし、中国は人口が13億人おり、内需も非常に大きいことを考えると、そういったことが起きるのは何百年も先の話かもしれません。両岸関係の問題は非常に複雑ですが興味深いです。
台湾について様々な角度から学べ、そして、両岸関係について考えさせられる紀行文でした。
以上